【北の丸公園】「遊就館」でゼロ戦を見学し神池庭園で錦鯉を眺めながら「靖国神社」を考えた1日

凜々しい立ち姿

狙うのは的

初めて見た弓道の試合

 

■心身を鍛練する武道

 

千代田区北の丸公園内にある博物館である「科学技術館」で行われた三陽商会(SANYO)ファミリーセールをのぞいた帰り、たまたま日本武道館で弓道の試合をやっていたので見学した。

考えてみれば弓道の試合を見学するのは生まれて初めて。福島・会津若松市にある武家屋敷で弓道体験した程度で正式な試合を見たことはない。一般の人も自由に入れた。

正式には第54回全関東学生弓道選手権大会と呼ぶそうだ。前日と併せ2日間行われていた。弓道は和弓で矢を射て、的に当てる一連の所作を通し、心身の鍛練をする日本の武道である。

経験や道具がなくても始められるのが嬉しい。弓の長さは221cmが基本。射手(いて=弓を引く人)の身長または競技の種類により若干の長短が認められるという。

矢は自分の引く矢束(やづか=矢の長さ)より5cm以上長い矢を選ぶ。1組4本。試合では予備矢が必要だ。

 

広大な靖国神社

 

■明治2年創建の招魂社が始まりの靖国神社

 

北の丸公園のそばに靖国神社(千代田区九段北)が立地している。とにかく広大である。あまりに広すぎて迷うほどである。靖国神社によると、同神社の由緒は以下の通りである。

靖国神社は明治2年(1869年)6月29日、明治天皇によって建てられた「招魂社」が始まりである。国家のために尊い命を捧げた人々の御霊を慰め、その事績を長く後世に伝えることを目的としている。

招魂社は明治12年(1879年)6月4日に「靖国神社」と改められ別格官弊社に列せられた。

明治天皇が命名された「靖国」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、靖国神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められている。

 

■祀られているのは246万余柱

 

靖国神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とした人たちが祀られている。

また明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、橋本左内といった幕末の志士も祀られている。

さらには日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変、第二次世界大戦(大東亜戦争)などの対外事変や戦争に際して、国家防衛のためにひたすら「国安かれ」の一念のもと、生命を捧げた人たちの御霊が祀られており、その数は246万6000余柱に及ぶ。

お馴染みのゼロ戦

同上

 

■展示されているゼロ戦

 

靖国神社の宝物館である「遊就館」(ゆうしゅうかん)で最も有名なのがこの「ゼロ戦」だろう。昭和15年に採用された「三菱零式艦上戦闘機五二型」(A6M5)が展示されている。

ゼロ戦の初陣は昭和15年9月。中国・重慶でソ連製中国軍機との空中戦で、敵の大半を撃墜。味方に損害なしという空前の戦火をあげ、その格闘性能と航続力で世界最強を誇った。

展示されている五二型は初期型より主翼の両端を短く円形に整形されている。発動機の栄二一型エンジンに推力式単排気管を採用して速度がかなり向上し、零式戦闘機の中では最も多く生産された。

 

泰緬鉄道C56型31号機関車

 

■泰緬鉄道を走行するC56型機関車

 

この機関車は昭和11年(1936年)日本車輌製造で製造され、石川県七尾機関区を走行していた。

大東亜戦争において90両が南方に徴用されたC56型機関車のうち、この31号機は、泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。

戦後、タイ国有鉄道で使用され、昭和52年(1977年)に引退。その後、泰緬鉄道建設に関係した南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金してタイ国有鉄道から譲り受け、昭和54年(1979年)、靖国神社に奉納された。

 

路線図

 

泰緬連接鉄道(たいめんれんせつてつどう)。日本軍は昭和17年6月、ビルマインド進攻作戦の陸上補給を目的に、タイ(泰)のノンプラドックからビルマ(緬旬)のタンビザヤの最短距離、415㎞の区間で鉄道建設を開始した。

工事は日本の国鉄規格を基本にして、鉄道第五、第九連隊を中心に連合軍捕虜や現地住民など約17万人が従事し、1年3カ月という驚異的な早さで昭和18年10月に開通した。

この区間はかつてイギリス軍が建設を構想したが断念したもので、険しい地形と過酷な熱帯気候などの悪条件のもと、敷設は困難を極めた。

 

神池庭園

ゆっくり泳ぐ錦鯉

 

■神池公園には新潟県から奉納された錦鯉

 

靖国神社は広い。本殿の裏には回遊式庭園の神池庭園があった。柳、桜、枝垂れ桜、紅葉などの木々に囲まれた池には色鮮やかな立派な鯉が泳いでいる。

この鯉は新潟県から奉納されたもののようだ。錦鯉発祥の地は同県中央部の古志郡二十村郷(現在の小千谷市、長岡市の一部)で、江戸時代中頃の約200年前にマゴイから突然変異した変種を観賞魚として養殖したのが始まりだと言われている。

以来、大正時代に紅白、大正三色、昭和初期に昭和三色の主要品種が作出され、現在では80種類以上の品種が作られ、「泳ぐ芸術品」賭して愛好されている。

 

外濠公園を仰ぎ見ると法政大学市ヶ谷キャンパスが見えた

 

■振り向けば法政大学市ヶ谷キャンパス

 

靖国神社の塀に沿って市ヶ谷方面に歩き、途中から中央線とぶつかった。この道はこれまでに何度も歩いている。

やはり75年間も生きていると、広いと言われる東京でもこれまでに歩いた記憶にぶつかるものだ。結構歩いているものである。

法政大学市ヶ谷キャンパスの文字を眺めるのも初めてではない。そんなにのんびりと、目的もなく歩き回っているなんてびっくりだが、事実を隠すわけにもいかない。

 

市ヶ谷フィッシングセンター

 

■釣堀でのんびり釣り糸をたらすのもこれまた人生か

 

JR市ヶ谷駅を降りると目の前に広がるのどかな釣り堀。カープフィッシング(大きな釣堀)入場料(1時間)大人780円、小学生以下450円、シニア680円。ほかに貸し棹は110円、エサ代110円と比較的低料金で道具がそろうので手ぶらで遊びに行ける隠れた人気スポットだ。

市ヶ谷駅のホームからも見下ろせる。地下鉄線と接続しており、いつだったか地下鉄からJRに乗り換えようと市ヶ谷駅で降りたことがある。

JRのホームのベンチに腰を下ろして電車を待っていたら、釣堀の風景が目の前に広がっていた。眠い目をこすると、夢ではなく、ほんまものの世界。そのまま釣り堀に誘われそうな雰囲気だった。

平日の昼下がり。仕事を忘れてのんびりと釣り糸を垂れている。これも人生かなと思ったことを思い出した。会社勤めだけが人生ではない。

現実から逃避しているだけかもしれないが、あれも人生。これも人生。人生いろいろである。

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